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移植の是非

ひろさちやの仏教の歴史を読んでいたら、移植の話が出てきた。

移植には四段階あるそうだ。

第一は輸血である。

血液は生体からとられ、一時的に相手の身体に入るが、いずれ壊れてなくなってしまうので、応急処置的なものだ。

一見当たり前のようなこの輸血も、ユダヤ教では他人の血を「食べる」行為として、原則的には反対している。

第二は角膜などの移植。

これは死体からの移植である。

イスラム教では死体に尊厳があるとして、死体から臓器を摘出することは許されない。

死体の角膜をとった医者は、目には目をで、自分の目から角膜をとられる。

第三は腎臓などの移植である。

生体では腎臓は2つあるので、片方をとってもドナーには大きな障害は残らない。

第四は心臓移植など。

これはドナーの死が前提となる移植である。

この場合、死体からの移植では助かる確率が低くなるので、脳死と言い、脳の活動は停止しているが、心臓は生きている状態の患者から臓器を摘出しようとしているのが現状である(当然、ドナーはその時点で完全な死になる)。

この脳死の考えに反対する人も少なくない。

このあたりの論議が不充分なのに、マスコミでは移植医療を美談のように扱っている。

宗教界で発言する人もほとんどいない。

これで本当に良いのだろうか?という疑問を常々持っていた。

今の医療もそうだが、移植も「生」が良いもので、「死」が悪いものだとする考えに基づいている。

「生」を継続させるためには何をしても良いという考えが根強くある。

本当にそうだろうか。

僕は違うような気がしている。

ひろさんは、「仏教の考えでは、生は生ですばらしく、死は死ですばらしいのだ。死を受容することが大切で、死を否定してはならない。」と言っている。

その通りだと思う。

人生の目的がエゴの超越だとしたら(僕はこのように思っている)、究極のエゴである移植医療はあってはならない医療ということになる。

しかし、科学が発達した現代では、この四つをすべて否定するという考えはいき過ぎかもしれないと思っている。

かといって、ますます肥大化していく「生」に対する欲望を放置してよいとも思わない。

移植医療がおこなわれているのは、先進国のごくごく一部の人で、その他大多数の人はわずかな金で買える薬さえ手に入れることが出来ずに死んでいる現実も見つめなければならない。

それでは、さきほどの第四段階のうちでどこまで許容できるのだろうか。

医療関係者の多くは四つのすべてを「是」とするであろう。

僕はどこかに線引きをしなければならないと思っている。

僕自身、現代生活の中でどっぷりエゴに浸かって生きていることを認めた上で、この四段階について考えてみよう。

まず、第一段階は「是」としたい。

ただし、反対するエホバの証人の精神を決して間違っているとは思わない。

これはこれで崇高な考えだと思う。

第二段階、第三段階は、自分が受ける側にたった時、「いらない」とは現時点では言えない。

もし今角膜や腎臓が必要になったら、「いらない」と言って、失明や透析の状態に耐えていけるかというと、なってない現状では「自信がない」としか言えないのである。

しかし、苦悩は避けたいと本能的に思う半面、たとえそうなっても、それはそれで別の人生が待っていて、「どちらが良いかは分からない」とも思っている。

第四段階は明らかに「反対」である。

自分が当事者なら、臓器提供を受けないし、臓器をあげることもしない。

これは、死を否定する考えであり、人間の幸せには結びつかないと思っているからである。

エゴを助長させるだけで、生が輝かなくなるように思う。

何歳で死のうとそこまで生きれたことに感謝する、という精神こそ、気高く崇高なのだろう。

いつまでもいのちに執着すれば、いつまでも死は怖いものになり、そういった生き方では生も輝かなくなるのである。

ということは頭ではわかっているのだが、自分自身まだまだ元気に活動したいという欲がある。

これがエゴであることはわかっているが、現状をトータルに考えてみて、第三段階目までは否定しなくても良いのではないか、と現時点では思っている。

もちろん、「すべて否定」という考えも認めたいと思っているが・・・・。