今日の新聞に痛ましい記事が載っていた。
倉敷で11歳の少女が餓死しているのが見つかったそうだ。
その横に座っていた母親もかなり衰弱していたらしい。
母親はまったく働く気力がなく、当然収入がなかったが、生活保護も受けず、周囲との接触もなかったらしい。
極貧生活で、ハチミツを舐めながら飢えをしのいでいたとのこと。
少女は小学校に行った形跡も無く、葬式に来たのは役所の2人だけ。
この少女の苦しみを思うと、とても切なくなってきた。
その時、友人でケニアのスラムの支援活動をしている早川さんの言葉を思い出した。
「ケニアでは両親がいなくても、親に収入がなくても子ども達は餓死しない」という言葉である。
それは、どんなに貧しくても、さらに困った人がいれば皆で助け合うからだ。
その人々の姿に感動した早川さんは、ケニアに住みつき、やがて支援活動に入っていったのである。
ところが、日本は物質的に豊かになった反面、周囲と疎遠になり、冷たい社会になっているのも事実である。
こう言うと、孤独が悪く、オープンであっけらかんとした社会が良いように思われるかもしれないが、そうではない。
人は孤独にならなければ、自己を見つめられない。
昨日も書いたが、真の喜びは、孤独を恐れぬ人にのみ与えられると思っている。
個人としての豊かさとは、自己を見つめ、自分らしく生きることで得られるのである。
そして、大多数の人が自分らしく生きていれば、社会はそれだけで豊かになるはずである。
なぜなら、自分らしく生きるとは、自分勝手に生きることではなく、それが必ず他人に貢献できる生き方だからで、真の喜びとは、他人に貢献した時に得られるものだからである。
そういった活動の集積が、社会を豊かにしていくと思っている。
それでは、なぜ日本の社会が豊かになっていないのだろうか。
それは、多くの人が“自分らしく生きる”のではなく、”自分勝手に生きている”からである。
その現象は、電車に乗ってみればすぐにわかる。
イヤホーンからもれる大きな音、混んでいても携帯電話の電源を切らない人々、老人や妊婦に席を譲らない若者・・・・・。
この国は、豊かさを失った危険な国になろうとしている。