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安楽死事件について考える 2

川崎の安楽死事件の女医が殺人罪に問われた。

以前、ボイスでこの事件について意見を求められた時、「殺人に値する」と書いた。

そのことについて、あらためて書いてみたい(今年の4月の日記を一部手直ししてある)。

やはり結論から言うと、この女医の行為は殺人だと思っている。

決して故意ではなく、同情に近いものだろうが、決して許されるものではない。

例えば、目の前に瀕死の重傷の人がいて、その人に意識がない場合、家族が「可愛そうだ」といって殺すことが許されるだろうか。

何人にもそのような権利は無く、許されない行為であることは明白である。

当然、医師にもそのような権限はない。

ただし、本人および家族の同意があれば、たとえ死期が早まったとしても、苦痛を取り除く行為(例えば鎮痛剤、鎮静剤の投与など)は必要なことだと思う。

が、医師に認められているのは、そこまでである。

今回の行為は、呼吸を停止させる筋弛緩剤を投与しているので、あきらかにやり過ぎの行為である。

この患者さんは脳死でもなく(私は脳死も人の死ではないと思っているが・・・・)、回復の可能性があるので、論外の行為と言えよう。

しかし、問題の本質はもっと根深いものがあると思う。

彼女は別に遺恨や憎悪で殺したわけではないので、罪の意識はなかったはずだ。

むしろ善意(間違った善意)でやったのだと思うが、「いのち」に対し、明確な哲学を持たずに、感情的におこなった行為のように思われる。

だから、重大な問題なのだ。

何人かの医療関係者にこのことを聞いてみたが、あまり明確な答えが返ってこない。

つまり、医師を含め、多くの人が「いのち」について考えていないことが大きな問題なのである。

それではまず、「いのち」とは、そして「いのち」は誰のものなのかについて考えてみたい。

大多数の人は「いのち」は自分のものだと思っている。

いのちの自己決定権が自分にあると思っている。

そして、自分の「いのち」をできる限り永らえたいと思っている。

医学も「いのち」を個のものだと認識し、それを延長させるために進歩してきた。

しかし本当にそうなのだろうか?

文豪・トルストイは、「生命について」のなかで次のように言っている。

「私が知っているのは、個の生命、つまり、みんなが自分だけを愛し、私も自分だけを愛し、できるだけ多くの快楽を手に入れ、苦痛や死から免れることのできるような生命は、止むことのない最大の苦しみであるということだ。私が自分を愛せば愛すほど、ほかのものたちと戦えば戦うほど、私はますます憎まれ、ますますひどく戦うことになる。死から身を守ろうとすればするほど死はますます恐ろしいものになるのだ。」

寿命の延長が医学の進歩により得られた今、人間の「いのち」に対する執着は増し、死はますます怖いものになってきた。

世間は自分の「いのち」を永らえるためにエゴになっている人々で溢れかえっている。

僕は「生命はかけがいのないものだが、生命への過度の執着はエゴだ」と思っている。

そして「エゴを超越するのが人生の目的であり、輝く生を送り、不必要な延命を避け、輝く死を迎えるしかない」と考えている。

死は必然であり、死がなければ次の生はない。皆が死ななくなれば、新しい命が生まれることはできなくなる。

とすると、限りない生命の延長を願う「個のいのち」はたんなるエゴであって、「いのち」の本質ではないはず。

それでは、「本当のいのち」とはどういったものなのだろうか。

歴史上の賢人たちの「いのち」に対する同じ結論は、「本当の生命とは、個の生命ではなく、時空を越えた生命である」ということ。

この考えは、自分の「いのち」が当然自分のものだと思っている人には理解しにくいかもしれない。

しかし、「いのち」に対して考えれば考えるほど、「いのち」とは何かもっと大きなもので、われわれは勝手に生きているのではなく、何かによって生かされていると思う。

「いのち」は個のものではなく「預かった」というべきものなのだろう。

「本当の人生、すなわち自分らしい人生を生き、他(人、自然、地球)に貢献しなさい」と与えられたものなのなのだろうと思っている。

だから粗末にはできない。が、寿命が来たら、死ぬべきなのだろう。

それが、自分のためにも人類のためにも地球のためにも良いことだ思う。

死は決して敗北ではなく、いのちを後世に伝えるため必要なこと・・・・。

自分のエゴで生命の延長を求め続けたとしたら、どんな事態が待ち受けているか考えてほしい。

人口増加であり、老人の増加であり、これらの問題は、人類の危機を意味している。

わずか数世代の醜いエゴのために地球環境が驚くほど破壊されている現状を見ていると、その原因の一つは間違った生命観にあるように思う。

このように、「いのち」が預かったものであるとすれば、「いのち」の決定権は個にはない。

当然、医者にもない。

あるのは、心臓の停止によって、非可逆的になった肉体が、「死である」という社会的慣習なのである。

僕は、死とはそれで良いのだと思っている。

そして、人間の生と死であっても、あまり自然の摂理からかけ離れてはならないのではないだろうか。

それでは、医学はどうあるべきなのだろうか?

医学は「幸せ」につながらなければいけない。

いくら寿命を延ばしても幸せにつながらなければ意味がないように思う。

ところが、前に述べたように医学は個の「いのち」を延ばすことによって「いのち」への執着を助長させてきた。

これでは、トルストイの言うように人を不幸にしているのではないだろうか。

まず、「幸せ」とはどういったものか考えてみたい。

お金も地位も名誉も人を幸せにしないことは事実のようだ。

これもエゴを助長させるだけで、死ぬ時にもっと地位や名誉が欲しかったと言って死ぬ人はほとんどいない。

これらのものは本質ではない、ということ。

幸せとは、「自分のエゴを捨て(延命も含む)、他のためにつくすこと。そして自分のなすべきことをみつけ、それに全力で取り組むこと(輝いて生きること)」だと私は思っている。

とすると、医学は、人間の幸せ、すなわち自分らしく輝いて生きること、最後に集大成をすることに貢献すべきで、延命の医療への貢献はほどほどで良いのではにだろうか。

でなければ地球の人口が増えすぎてしまう。

ここで、安楽死事件に戻る。

過度の延命があまり良いことではないと書いたが、今回の事件についても、患者が苦しんでいるから、無理な延命はしないほうが良い、というようには誤解しないでほしい。

これはまったく別の問題なのだ。

「いのち」が与えられたもので、個に帰属しないのであれば、死の決定権は個にも、医師にもないのである(本人が望んでも、医師が直接管を抜くとか、致死にいたる物質を注射するなどの権限はないと思っている)。

しかし、「いのち」の本質を考えた時、医師が寿命を超えて過度に生かすことや、患者が、他の死を踏み台にして(脳死臓器移植のこと)まで生きるのはどうか、と考えている。

無意味な延命は良くないと思う。

そして、脳死臓器移植や生殖医療など、人間は(医師は)、生と死を神のように操ろうとしていること自体、傲慢なことだと思う。

人間は神ではない。

もちろん医師も神ではない。

だから、もっと自然に・・・・、ということで良いのではないだろうか。

さらに問題の本質に迫ると、この女医だけでなく、多くの医療関係者が明確な生と死の哲学を持っていないことがとても重要に思えてならない。

医学知識ばかりを教え、倫理や哲学を教えない教育が悪いのである。

だが、これは医療関係者だけの問題だけでない。

一般の人も若い時から生と死について考えていなければならない。

日本人はあまりにもそういったことを避けようとしすぎている。

だから、肉親や自分に死が差し迫ったときに、何も考えられない。

そうなってからでは遅すぎるのである。

普段からもっと「いのち」について考える機会を持って欲しい。

これは、個人だけではなく、社会としても取り組まなければならない問題なのだろう。