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感受性豊かな子どもの悲劇

家内が「素晴らしかった」というので、録画してあった詩のボクシングを見た。

詩の朗読で対戦しながら勝ち抜いていくという番組だ。

優勝したのはファミリーコンプレックスの気持を絶妙に表現した25歳の青年だった。

すべての詩がごく普通の両親のもとに生まれた感受性の強すぎる子どもの悲しさが描かれ、素晴らしかった。

とくに、彼はそのコンプレックスを昇華して、上から眺める余裕すら見せている。

詳しい内容は忘れたが、たとえばこんな内容の詩もあった。

寿司屋を切り盛りする夫婦。

多忙を極めていたようだ。

その子どもはさみしさを感じていたが、そう思ってはいけないと思い続けているうちに、自分がさみしいということには気付かなくなった。

しかしその少年は寝小便を繰り返していた。

医者に相談したその日、母は子どもを抱いて寝た。

その日から少年の寝小便はとまった。

最近よく感じることが、世の中の「普通」を求める親のもとに、特別に感受性豊かな子どもが産まれた場合、親や社会の常識という槍でグサグサ刺され、傷ついていくのである。

親がごく当たり前に子どものために良かれ、と思って言ったことを、子どもはずっと引きずり、苦しんでいくことに親たちは気付かない。

彼のように早いうちに昇華して、うまくやっていける人もいるだろうが、その傷を抱えながらなかなか超えられない人も多い。

繊細すぎると非難すべきではない。

常識的なものを求めてなぜ悪いと言う人も多いだろうが、僕は、常識の前に大切なことがあると思っている。

それは「自分らしく」ということである。

しかし、自分らしさを確立するには時間がかかる。

その確立前に、常識という枠にはめられようとすると、猛烈な苦しみが生じることを「普通」に流されて、常識に縛られてきた親には分からないのだ。

「なぜ良いアドバイスをしているのに分からないのだ」と怒り、さらに子どもの「自分らしさ」を封印しようとする。

そうなるとあとは、子どもにパワーがあるかどうかだ。

パワーがあればその状況を乗り越えるが、なければ苦しみが持続する。