戦争はもっとも愚かな行為だと思う。
しかし、その戦争があったがゆえに今の僕が存在していることが分かってきた。
京都ホテルの御曹司だった父と地方都市の決して豊かではない印刷工の次女だった母。
出会うはずのない2人が出会った不思議。
そのいきさつは今まで聞いたことがなかった。
母の病床に通い続ける日々は、これらのことを聴ける良い機会になった。
軍国少女だった母は「お国のために何か貢献したい」と思っていた。
戦時中、男性の医者は戦地に派遣され、国内では医師が不足していたために女医を目指すことにした。
「女子医大(当時は医専)は定員を増やして多少は入りやすくなっていた」と本人は言っているが、相当努力したようだ。
親族に医者はおらず、そのような社会状況でなければ医師を目指すことはなかったであろう。
はじめは仕送りを受けていたが、戦後は家業が傾き、進駐軍の寮母のバイトをしながら、奨学金を得ながら卒業した。
父は京都ホテル創業者の3代目として帝王学を学びながら育った。
しかし、戦争で祖父は京都ホテルを手放すことになった。
商業高校に通っていた父は途方にくれ、急きょ医師をめざすことになったようだ。
父方にも医師の親族はいない。
それまで受験勉強をしていなかったのでたいへんだったようだ。
何年も浪人してようやく医学部に入った。
このように戦争に翻弄されて、医師を目指すことになった二人。
大学は違ったが、ある研究会で出会い、結婚した。
そして今の自分がいる。
少年時代、内気で人と話すのが苦手だった僕は医師になれるとは思っていなかった。
母の強い押しがなければ、絶対に医師にならなかったであろう。
父は自然が大好きで、高齢になっても昆虫採集を続けていた。
父がいなければ自然に魅せられるようにはならなかったかもしれない。
その二人の遺伝子を持つ自分が、医師と自然写真家という2つの視点で生命を表現するようになったのは必然だったのかもしれない。